Title: 知識の姿 − 人工知能研究者の立場から

下は、1991年に「現代思想」誌に掲載された原稿です。

今(2011年)読み返してみると、私自身のその後の研究の出発点がよく描かれているような気がしますので、ここに紹介させていただきます。 若気の至りで筆がすべっているところがあり、今読み返すと少し違うと思う部分もありますが、そのまま掲載します。



「現代思想」Vol.19, No.6, pp.142-149, 1991.

知識の姿 − 人工知能研究者の立場から

        堀 浩一 (東京大学)


1.まえがき
 人工知能研究者の立場から知識を追い求めてきたが,求めれば求めるほど,知識は遠ざかっていく.一体,知識というのは何物なのだろうか.
 本稿では,まず,人工知能研究のキーワードの変遷を紹介する.次に,なぜ,知識獲得のボトルネックというものが生じるのか考える.そこでは,知識なんてそもそも存在しないのではないかと考えてみる.では,それにかわって何かがあるはずなのではないかと次に考える.候補は暗黙知や言語アラヤ識である.さらに,知識の実際の姿にあわせて,道具としてコンピュータに何ができるかを考える.

2.人工知能研究のキーワードの変遷
 知識工学,知識情報処理などということばの氾濫している現在においては不思議な気もするが,人工知能研究において「知識」という概念が登場したのはそう古いことではない. 人工知能研究がはじまった1950年代の後半から1960年代においては,人工知能研究の中心的なキーワードは「探索」であった.初期の盤面から勝利の盤面へとつながる一連の手を可能な手の空間から探索すればゲームに勝つという目標を達成できるはずであり,それと同様に,与えられた問題の空間と解の空間の間をうめる操作の列を探索できれば,あらゆる問題を解くことができるはずであった.
 1970年代のキーワードは「知識」であった.歴史的にあとから見れば当然のことなのだが,いくら効率的な探索の手法を考えたところで,探索すべき空間が用意されないことには始まらない.チェッカーなどのゲームの世界あるいは形式のはっきりした定理証明の世界などにおいては探索すべき空間がはっきりしていたが,たとえば言語理解においては与えられた文とその意味をつなぐ空間を形成するものとして単純な操作の列を考えることはできない.そこで登場したのが「知識」であった.専門家は問題解決を行う際に知識を使っているらしいから,計算機にも知識をもたせればいいではないかと考えられた.人工知能研究者は哲学者ではないから,知識とは何かを考えるさきに,「知識」を計算機にのせ,「知識」を使って「推論」を行わせる手法をひねりだし,さらには,エキスパートシステムと名付けたシステムが専門家と同じレベルの問題解決を行いうると主張しはじめた.ここでの「知識」とは,あえて一言でいえば,問題から解へとつながる記号の列であった.さらに,その,問題,記号列,解は,それらだけで閉じた世界を作りうるということが前提となっていた.
 そして,1980年代のキーワードのひとつが「状況」であった.人工知能研究者が気軽に考え始めた「知識」の利用は,そう一筋縄ではいかないことがわかったのである.どういう問題が生じたかは次節で詳しくみるが,問題から解への空間あるいはもっと広く言えば入力から出力への空間は閉じた記号系として独立に存在することはできず,記号を操作する主体のおかれた状況との関わりにおいてのみしか,知能によるところの知的活動を説明できないと考えられるようになった.そこで,「状況」を含んだ説明体系が考えられようとしている.
 「自転車のハンドルを走行中に右にきればコリオリの力がこう働いて,云々」と自転車の走行原理を説明できたからといって自転車に乗れるとは限らないのと同様,状況理論を作っても人工知能がすぐに実現できるわけではないが,人工知能研究者は常に能天気に,くよくよ悩む前にとにかく作ってみようとしている.90年代にはまた新しいキーワードが生まれることであろう.
 本稿では,「状況」というキーワードに進む一歩手前で,人工知能研究者の見た知識の姿を一度整理しておいてみたい.

3.「知識獲得のボトルネック」と「知識」に関わるいくつかの側面
 筆者は,知識とは何かということについてどれだけの考え方があるのかよく知らないが,伝統的な知識観というのは,「万人に共有可能な,言語化された情報あるいは整理された体系としての知識」ではないだろうか.人工知能研究者が人工知能を作ろうと奮闘してわかったことは,そんな「知識」はどこにもない,ということである.たとえば化学用のエキスパートシステムを化学者と共同で作ろうとして,化学に関する知識を化学者から聞き出そうとしても,「いやー,わからないから研究しているわけでして.」という答が返ってくるのが落ちである.知識処理システムの用いる知識を専門家等から引きだして計算機にのせることの困難さを,知識獲得のボトルネックと呼び,その困難にたちむかうためにナレジエンジニアという奇妙な職業が生まれた.
 ナレジエンジニアのやっていることは,いったい何なのだろうか.ここで知識に関わるいくつかの側面を考えてみよう.
 まず,知識というものがそもそも存在するのだろうか.伝統的知識観に合った知識というのが,どうも見あたらない.専門家がもっているのは万人共有ではなくパーソナルな何物かのようだし,言語化されていない何物かのようである.パーソナルで,言語化されていない何物かなど,伝統的知識観から言えば知識ではないから,知識はこの世に存在しない,ということになってしまう.
 では,知識というのは本当は存在するのだが,そこへアクセスするのが容易ではないのだと考えるのはどうだろうか.万人共有で言語化された知識は存在するのだが,そこへの目次がないために簡単にはたどりつけないというわけである.さらに,たとえたどりついても,そこにある知識を表出するのが容易でないと考えることもできる.しかしながら,まず,表出困難ということは,知識は言語化されたものだという知識観に反している.言語化されているならそのままその言語で表出するだけですむはずである.また,アクセスについては,ナレジエンジニアがあの手この手で,ありそうな知識に近づいていこうとするのであるが,アクセスの経路を変えると,意味的に同じ場所にあるはずの知識が内容を変えてしまうのである.場合によっては矛盾した説明を専門家から引き出すことになってしまう.
 アクセスの経路によって変化することは,知識の運用あるいは状況依存性を持ち出すことによって説明できるのかもしれない.知識は単独に存在しているのではなく,それが使われる状況と組になっていて,運用の場面によって,形や内容までもが変化するのだと考えれば一応は納得できそうである.しかし,この考え方は,知識を運用すべき状況というのが一般には有限の数え上げが不可能と考えられる点に難点がある.知識というのが状況と組になっているとすれば,無限の状況との組を保持しなければならないことになる.
 人工知能研究においては,深い知識と浅い知識という区別をすることがあって,知識利用の状況によらないような普遍的な物理法則のようなものが深い知識で,応用領域ごとのノウハウのようなものが浅い知識であるとされている.浅い知識をたくさん集めるのは大変だから,深い知識を蓄えておいて,分野ごとに浅い知識を作ればいいとか,浅い知識だけではうまく説明できない時に深い知識を用いれば良い,などということが主張されてきている.この考え方と同様に,無限の状況との組を保持しなくても,状況に応じて変化するもととなるような何物かが存在していればいいではないか,とも考えられる.
 しかしながら,この,状況に応じて変化する何物かというのは,何なのだろう.これを知識と呼んでいいのだろうか.少なくとも伝統的知識観からは,はずれているように思われる.なぜなら,その何物かは,言語化できないことが多いしパーソナルに所有されているというのが,実態だからである.これは,どう反論されても実際そうなのだから仕方がない.セメント工場の専門家は,「説明しろと言われてもできないけど,キルンの中の様子が目に浮かぶんだよね.」と言うし,化学の専門家は,「説明はできないけど,なんとなく,この分子構造は興味あるねー.」と言うのである.万人に共有可能で言語化された知識などというものにお目にかかったことがない,という主張をすると,哲学者や理論寄りの科学者からは猛烈な反発(反論にはなっていない)を受けることが多いが,知識処理システム構築の経験者や発展中の分野の研究者からは同意される.
 知識が存在しないとしたら,では,ナレジエンジニアがやっていることは何なのかということになるが,彼らがやっていることは,きわめて限られた状況において入力から出力へと接続しうる記号列を専門家と協力して新たに構築しているということになろう.
 あるいはまた,例えばニュートンの運動の法則というのは,万人に共有され言語化された知識ではないか,という反論はどうだろう.そういう知識があるということを否定する必要はないが,残念ながら,これとても,「F=ma」という式が,それ独立に存在しているわけではない.そのまま運用できるのは受験の時くらいであろう.航空工学の専門家と土木工学の専門家とでは,同じ「F=ma」の式が異なる姿にかみくだかれていて,そのまわりには,もやもやーっと,いろいろな異なる知識のもとがまつわりついているというのが実際の姿なのである.

4.「静的存在としての知識」でない知識?
 「万人に共有可能で言語化された知識」というものが存在しない,あるいは存在しても知的活動における比重が大きくはないとしたら,実際の知識の姿はどうなっているのであろうか.
 残念ながら人工知能研究者や認知科学者はそれに対する回答をまだもっていない.メンタルモデルの研究はいろいろあるし,神経回路のレベルに降りてしまって説明しようという試みもあるし,前述したように状況という概念の導入も試みられているが,客体としての知識を追い求めてみると常に蜃気楼のごとく知識は消え失せてしまう.人工知能研究者は信念と知識を混同しているという批判が哲学者からなされることもあるが,人工知能研究の立場からいえば,信念だけで知的活動が実現できるならば,それでいっこうにかまわない.むしろ,追い求めてもうまくつかまらなかったら,そんなものはないと考えて,他のいろいろな要素の組合せを考えようというのが人工知能研究のやりかたである.
回答はなにももっていないが,関連のありそうないくつかの考え方を検討しておきたい. まず,暗黙知というのはどうだろうか.ポラニーの,「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」という主張(1)は,まさにナレジエンジニアの直面する問題と一致している.専門家は,知ってはいるけど語れないのである.ポラニーによれば,「科学において範例をなす知識の状態とは,科学的知識を見つけ保持するために必要とされる能力がすべて,十分に展開されている状態である」.語れないのに知識が伝わるのは,「生徒がつかもうとして努力する知的協力」による.科学的発見は科学者の「傾倒」による.これらの主張のどれもが,人工知能研究者の直面する知識の姿と一致している.しかし,ポラニーの主張にしたがうと,「科学において客観性という理想にかわる安定した理想を見つけだすこと」が必要になることになり,伝統的な科学観にしばられている人には耐えがたいらしい.この点については,人工知能研究者や認知科学の研究者は,伝統的な科学観に縛られている限りは知能を論じることができないと悟り,新しい科学観を追い求めようとしているので,大きな障害にはなりえない.しかし,人工知能研究者にとっても難点と思われるポラニーの主張は,「傾倒という行為を形式化することはできない.なぜなら,あなたはあなたの傾倒を,傾倒的でない仕方で表現することはできないからである.」というものである.「傾倒」は「傾倒」である,とされると,そこから先に進めない.ここで,人工知能の研究者がとる態度には3種類がありうる.ひとつは,「傾倒」とは何か,「知的協力」とは何かを,別のレベル(恐らくは記号処理のレベル)に還元してあくまでも説明しようと試みるものである.ふたつめは,説明はあきらめるけど作ってみせようという態度である.ライト兄弟が飛行機を作った時だって,飛ぶ原理がわかっていたわけではない.傾倒して,語れない知識を身につけるようになるマシンだって作れるかもしれないではないかというわけである.神経回路の機構をまねしようというコネクショニズムの考え方は,このような態度のひとつのあらわれであったのだが,残念ながら,現在のコネクショニズムの研究では,その実現は不可能である.なぜならば,コネクショニズムの研究の中心がネットワークの機構にあり,外界との関わりについては何の進展も見られていないからである.三つめの態度は,とりあえず説明はあきらめておいて,そういう「暗黙知」とか「知的協力」とか「傾倒」とかいうものが現象としてあるとして,それを最大限生かす形で何かできないだろうか考えようとする態度である.この最後の態度は,筆者が最近とっているものであり,そこで何ができようとしているかは次節で述べてみたい.
 井筒の説く言語アラヤ識(2)の考えも人工知能の研究者にとって興味深い.井筒によると,言語アラヤ識とは,「強弱様々な度合において言語化された『意味』エネルギーの,泡立ちたぎる流動体」である.そこでは,「無数の潜在的『意味』形象が,瞬間ごとに点滅し,瞬間ごとに姿を変えつつ,下意識の闇のなかに渦巻き」,その中には,「相当程度の言語的凝集性を得ているもの」も,「未だ己れの『名』を得て落ちつくことができず,言語化への道を探り求めて,迷走しつつあるような『意味』可能体もある」.「『アラヤ識』の暗い深部に流動する『意味』エネルギーの,あれこれの部分が,時と場合の要請に応じて,あるいは単独に,あるいは幾つか連合して活性化され,表層意識の白日の光の中に浮び上ってくる」.これは,専門家の知識運用の姿に非常によく似ているのではないだろうか.ふだんは明確には言語化されていなくても,時と場合の要請に応じて,浮かび上ってくるのである.浮かび上ってきたものだけをすくい取って,それを知識として知識処理システムに移植すればよさそうなものだが,実際にそうしてみると,すくい取ってもってきた知識は,状況を変えると役に立たないことが多いのである.井筒の説がポラニーの説よりもありがたいところは,レベル間がつながっているところである.人工知能研究者としては,なんとか記号レベルの下層にひそむ言語アラヤ識のようなものを実現してみせたい.実際,コネクショニズムの出始めの頃,サブシンボルレベルとかマイクロフィーチャーといった議論が少し行われた.しかし,残念ながらサブシンボルレベルの研究は進んでいない.例によって,あまりにもいい加減にサブシンボルレベルというものを仮定してみて,文脈依存性の説明などをやろうとしたため,興味深い結果は何も得られていない.本気でサブシンボルレベルというものを考えるならば,サブシンボルレベルに意味可能体に相当するものが作られ蓄えられていくメカニズムを作ってみせ,さらに,サブシンボルレベルからシンボルレベルのシンボルが浮かびあがってくるメカニズムを作ってみせ,そして,そのメカニズムを世界の中で生活させてみせなくてはならないわけだが,最大の問題は,そのメカニズムと世界との界面のつくりかたがわからないことにある.リンゴを食べることのできない機械にリンゴに関するサブシンボルが作れるかどうかは,どうもよくわからない.味覚はともかく,視覚,聴覚,触覚くらいは機械がもってくれないことには,「意味可能体」を作ることがそもそも不可能であると思われる.そこで,安易にロボティクスの研究に走りたくなるのだが,しかし,視覚のメカニズムを記号処理で実現しようとすると,問題が循環してしまう可能性があって,ロボットを作ればなんとかなるというものではない.
 ポラニーや井筒の考え方と,現実の人工知能研究の間には,大きなギャップがある.本来なら,心理学者がそのギャップを埋めるための仕事をすべきであり,実際,認知科学の研究においてその努力がなされつつあるのだが,まだまだ,コントロールされた実験を行いたがる心理学者の習性は払拭されておらず,現実の場面での知的活動の姿の分析は少ないといってよい.人工知能研究者と心理学者の共同による認知科学の今後の研究に期待していただくしかないといったところである.
 
5.現象としての知的活動と道具としてのコンピュータ
 科学者や技術者の実際の知的活動をながめてみると,客観的知識には依らない活動が大きな比重を占めていることがわかる.
 端的な例は,建築設計や自動車のデザインである.筆者は,90年の夏にエディンバラ大学のバイユ教授と知能や知識について集中的な議論を行ったのだが(3),建築CAD(Computer Aided Design)に長年携わってきたバイユに言わせると,「たしかに,CADを使って壊れない構造を設計できるようになった.しかし,建築においては壊れないことは重要ではない.美しい建築であれば,たとえ壊れても後世の人が修理する.醜い建築は朽ち果てていくだけである」.自動車の設計も,現在は,エンジン設計などの重要さなどはさておき,高級感をいかにして実現するか,とか,安心感をいかにして実現するか,などといった概念設計のほうが重要視されている.ソフトウェア工学というのも,客観的知識の存在しない世界の代表である.いろいろなソフトウェア工学の理論はあるけれども,みなそれぞれに,自分にとって美しいプログラムを作ろうとしている.
 筆者はここ数年来,分節問題と呼ぶ問題に取り組んできている(4).分節とは世界の切取り方を定め記号の集合と記号間の結合をつくることと定義する.世界の切取り方は,常に流動的で,状況によって変化するものであり,安定した分節というのは存在しないと考える.そのうえで,計算機が道具としてどう役に立ちうるかを考えようとしている.これは,「客観的な『もののあはれ』という概念は存在しない.あの先生のおっしゃる『もののあはれ』と私のいう『もののあはれ』をいっしょにしてもらっては困る」と主張し,にもかかわらず論文検索システムを欲する文学者たちとつきあって,4年間システム作りをした筆者の体験に根ざしているのかもしれない.工学系の仕事に戻ってみても,ニュートンの運動方程式だって,「もののあはれ」と似ていろんな個人的分節を伴っているのである.
 筆者が作成し,一部実際に動いているのは,世界のいろいろな分節を試みるための道具である(5).バイユの言葉でいえば,Expressionのためのマシンである.知識というのは,常に流動する現象であり,科学者の生活というのは,Expressionを作成し,他人や自分を含む外界と,やりとりしつづけることによって成立している.このやりとりは停止するということがない.このやりとりをやめた時,知識も姿を消す.客観的知識というのを求めることは,ちょうど「この自動車のスピードはどこにありますか.このスピードメータがスピードですか.それともこのエンジンですか」と尋ねるのと同じことといってよいであろう.スピードというのが自動車の走行にともなって存在する何かであるのと同様に,知識というのは,科学者や技術者の生活にともなって姿をみせる現象と考えてしまっていいのではないだろうか.その現象を生むメカニズムを追い求めることはできるが,その現象と同一視できる客観的存在としての知識は静的には存在しないと考えてしまえば,実際の知的活動の現象とよく一致する.
 筆者は,知的活動のメカニズムを追い求める夢を捨てたわけではないけれども,最近は,その前に,道具として,コンピュータを知的活動の中に組み込む方法のほうに興味がある.知識を持ったコンピュータが教師の代わりをつとめるCAI(Computer Aided Instruction)システムなどというのは,少なくとも現在のところナンセンスだと思う.知識を発現させるようなやりとりを現在のコンピュータは行うことができない.現在のコンピュータは,記号と外界を結びつけたり,外界に作用して外界の分節を自分で変えてみたりすることができないからである.筆者が作成している道具の場合は,異なる分節を試みたり,それを評価するのは,人間である.その実際の使用目的のひとつは,発想支援である.頭の中のもやもやーっとしたアイディアを少しずつ言葉にしてだんだんに構造化していくためにこの道具を用いることができる.システムはユーザが与える言葉の断片をある原理に基づいて空間上に配置してユーザに提示する.その空間に刺激されて,ユーザは自分の世界の分節を詳細化したり変更したりしていく.ケストラーの創造活動の理論(6)にみられるような文脈間の衝突をコンピュータの画面上に実現することができる.そのために,いろいろな異なる文脈に対応する異なる分節がシステムに蓄えられていて,それが成長していく.このシステムは,実際に日米欧の共同研究プロジェクトのコンセプト構築などに利用されて,一定の成果をあげている.
 この道具は紙と鉛筆の延長と言ってもいいのだが,実際の知的活動が紙と鉛筆なしには成立しないことを考えると,紙と鉛筆の機能拡大は,さまざまな可能性をもっていると考えられる.

6.むすび
 フロギストンやエーテル同様,知識も存在しないのであろうか.静的な存在としてではなく動的な現象として説明しようと思えばできそうなこと,さらにはそのほうが実態にあいそうなこと自体が,知識に関する知識の流動性を示している.
 筆者は工学系の人間だから,知識とは本当はこういうものだと証明したいとはあまり思っていない.そもそも証明可能な対象とは思えない.工学としては,創造の喜び,知的活動の喜び,という人類にとっての貴重な喜びをさらに拡大するための道具を作ることのほうに興味がある.

参考文献
(1)Michael Polanyi: The Tacit Dimension, Routledge & Kegan Paul Ltd., London, 1966, 佐藤敬三訳:暗黙知の次元,紀ノ国屋書店,1980.
(2)井筒俊彦:意味の深みへ,岩波書店,1985.
(3)Aart BIJL: Formality in Design - Logic and What Else...?, Proc. International AI Sysmposium 90(IAIS90), Nagoya,1990.
(4)Koichi HORI: Articulation Problem - A Basic Problem for Information Modelling, Kanggassalo,H., Ohsuga,S. Jaakkola,H.(eds.) Information Modelling and Knowledge Bases, IOS Press, Amsterdam(1990).
(5)Koichi HORI: Assisting the Articulation of the Real and Mental World, Jaakkola,H., Kangassalo,H., Ohsuga,S.(eds.) advancses in Information Modelling and Knowledge Base, IOS Press(1991).
(6)Arthur Koestler: The Act of Creation, A.D. Peters and Co. (1964). 大久保直幹他訳: 創造活動の理論,ラテイス(1966).



Author: Koichi Hori


堀浩一の紹介

堀浩一の紹介:
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(「堀 浩一」という項目から始めて、関連する話題を、ざっとではありますが、抽象的な問題は右へ、具体的な問題は左へ、一般的な話題は上へ、人工知能研究関連の話題は下へ、という方針で、配置してみました。ただし、すべての項目の配置がその方針を満たしているわけではありません。)

堀浩一の略歴と連絡先は「堀 浩一」にあります。 詳細な履歴は「堀 浩一 詳細履歴」にあります。
たまに「堀 浩一 の ひとりごと」を更新しています。なぜかこのひとりごとへのアクセスが比較的多いのですが、読んで下さっている皆様に感謝申し上げます。
堀は人工知能の研究者です。時々堀洋一先生と間違われることがありますが、 「堀洋一さんと堀浩一は別人です」
堀研究室は東京大学大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻にあります。 研究室では、航空宇宙工学への人工知能の応用だけでなく、学生諸君の自主的なテーマ設定を尊重して、幅広くいろいろなテーマの研究を行っています(「堀研究室所属を希望する皆さんへ」「活躍する教え子たち」)。

私自身は、人工知能研究の中でもやや特殊な「創造活動支援システムの研究」を行ってきました。 なんだか怪しい響きの研究テーマだと思われるかもしれませんが、いつのまにか仲間も増えました(「ことばと発想のテクノロジー 」)。
創造活動支援システムの一例として「堀の自作ソフトKNC(Knowledge Nebula Crystallizer)」を作りつづけています。このサイトもそのKNCで動いています。「KNC(Knowledge Nebula Crystallizer)の原理 」にやや専門的な説明を書きました。このサイトを動かしているKNCは「Rails + MySQL」で実装しています。

研究者が何をめざして研究をおこなっているのかの本音について、「事業仕分けをきっかけに思う」に書きました。研究者の本音を身も蓋もない言い方で言ってしまうならば、面白くて仕方ないので研究しているということになるでしょう。
しかし、学問ごとに目標とするところに少しずつ違いはあって、 我々工学の研究者がめざしているのは、おおげさな言い方をするならば、人類の幸福です(「工学と理学の違い」)。
理想と現実の狭間で、研究をどうやって評価すべきかは、重要で難しい問題です(「評価」から「解説」へ 」「人工知能学会創立25周年にあたって 」)。
できれば、産学連携も、理想に向かって「志高き産学連携」を行いたいものです。

最近再び人工知能の研究が注目されるようになってきています。 そもそも知識とは何なのだろうという問題については、昔々現代思想誌にも書かせていただいたことがあります(「知識の姿 − 人工知能研究者の立場から」)。
「機械が心を持つようになるか?」 「人工知能倫理(AI Ethics)について」 「機械との競争について」 「集合知とは何か」等々、私も考え続けています。
学会の果たすべき役割についても考え直す必要がありそうです(「人工知能学会創立25周年にあたって 」)。
それらすべてに関係する「人工知能とは」という解説記事を書きましたので、それも掲載しておきます。


最終的に私がめざしているのは、恩師からの宿題の「文化国家としての技術立国 」に少しでも貢献することです。


 

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